3/7、3/8に県立高校一般入試があります
いよいよ、明日・明後日に県立高校入試があります。
これまで頑張ってきた成果を存分に発揮してきてください。
塾生は誰しもが努力を惜しまず、日々勉強に励んでくれました。
子供たちに指導する立場の人間としては、一生懸命に頑張る姿を見られた事が嬉しい限りです。
途中で放り出したり、挫けたりせず、前を向いてひたむきに進んでくれました。
本当によく頑張ったと思います。
私では至らなかった部分もたくさんあったと思います。
それでもついてきてくれて、ありがとうございました。
子供たちの姿が私の励みとなり、今日も頑張ることができています。
陰ながら応援しております。
以下、余談となります
※さて、以下は余談になりまして、共感する方も少ないのではないかと思うような内容となっております。ただ、受験生の指導を通して思うことがありまして、書き連ねておくだけですので、意味が分からない方は深慮せず流していただけたらと思います。また、一個人の意見ですので、鵜吞みにすることなく、一つの考え方として捉えていただけたらと思います。
はじめに
「自分さえ良かったらそれでいい」「相手がどう思うかなど、考えなくていい」「人が困っていても知ったことではない」
上記のような考えの人ばかりで、良い世の中になるでしょうか。
自分さえ良かったらそれで良いと思っている方、自分が困ったときに同じことが言えるでしょうか。
困ったときに誰も助けてくれない世の中が、良い社会と言えるでしょうか。
今の社会を見てみますと、(あまり書きたくありませんが)政治家をはじめ、上記のような人が蔓延っているのではないでしょうか。自分は1000万円脱税しても構わないが、世間の人は1円の申告漏れも許さないとは、何事でしょうか。
善悪二元論に立ってしまうと、彼らは悪者だと批判したくなります。しかし、それだけでは問題は解決しません。事の本質を見抜かなければ、また新たな芽がでてしまうことになってしまいます。
どうして、「自分さえ良かったらそれでいい」という考えになってしまうのか。ということが問題なのではないでしょうか。
(優れた経験を積んでこられた方は、これを聞いて、それが人間の本質だと捉えていると思います。鋭い視点だと思います。しかし、それが良い心かと聞かれると、そうではないと感じている方が多いのではないでしょうか。)
何のために勉強するのか
さて、昨今の世間の様相を見ておりますと、単純明快な結果が全てであるという主張が多いように感じます。受験産業がまさにそのもので、わかりやすく合格すれば良し、不合格ならダメだとする風潮があります。
当然だろうと思った方が多いのではないでしょうか。私自身、大変な未熟者だったため、恥ずかしながら昔はそのような考えがありました。しかし、よくよく考えてみると可笑しな考え方でありました。学習というのは、受験の合否が全てではありません。間違えることこそが、勉強の始まりだからです。
学習とは、読んで字のごとく学び・習うことです。何を学び、何を習うのかといえば、わからないことを学び、わからないことを習うのが学習です。現代では、この学習を通して勉めて強くなることを勉強の大意と捉えられています。まだわかっていないことを「わかろうと努力すること」は悪いことではないと、誰しもが理解できると思います。
受験において、中には努力をせずに受かる人もいれば、努力したけれども不合格となった人もいます。また、人はリスクのある挑戦をして初めて成長するものです。合格しなかった人はみんなダメな人間なのでしょうか。
人間には生まれ持った遺伝的な能力があります。一つのことを身に着けるためにかかる時間も人によって大きく異なります。さらに、合否は自分ではどうしようもない部分で決まることが往々にしてあります。同じ時代同じ場所に生まれた人の中で勝負をするわけですから、自分より能力の高い人が受けたから落ち、自分より能力の劣った人が受験したから受かったとなるだけのことです。自分の出せる最善を尽くしても変えられない結果があるのです。
上記を踏まえながらも、落ちるかもしれないというリスクを負って挑戦した人間に、どうしてダメなやつだと言えるでしょうか。
受験期間中、落ちるかもしれないという不安に駆られ、少しでも休んでいると周りに叱られ、ダメな人間になりたくないと怯えながら受験を迎える子供たちの如何に多いことか。子供のうちに、このような苦しみを与えるから、心の荒んだ大人になるのではないでしょうか。
受かった俺は偉い、落ちたお前は悪い。ここのどこに助け合いがありますか。
何のための進学か
そのような中で、受験の合否を目標に勉強しているから、高校に入ったり大学に入ったりした後に勉強をしなくなるのです。
何のために高校へ行き、何のために大学へ行くのか、多くの人が原点に立ち返って考えてみる必要があると思います。
中卒より高卒、高卒より大卒だからと大学受験をさせ、就職して、やりたくもない仕事をして、給料をもらって、どこに幸せがあるのでしょうか。また、そのような態度で臨む仕事が「自分さえ良かったらそれでいい」というものになるのではないでしょうか。
今の政治家や官僚は熾烈な受験戦争を勝ち抜いた人で固められています。子供の頃に心を荒らされた大人が、自分の身を守るために働いているのではないでしょうか。
ただ、給料が良くなる、仕事環境の良いところに就職できるからと、今の自分のことを顧みずに進学先を決めると、待っているのは苦しい未来だけです。自分が何を学びたいのか、どのような能力を身に着けたいのか、高校や大学には、学びたいことがあるから、進学するべきだと私は思います。
とはいえ、何か学びたいものがあるわけでもないし、したい仕事があるわけでもないという人もたくさんいると思います。そのような人は、進学すべきではないのでしょうか。
何のために働くのか
このことを論ずるにあたり、次の問いを考えなければなりません。
今、自分がどれだけの人や生き物に支えられて生きているのか、わかりますでしょうか。
これは私には到底知り得ることのできない問いです。晩御飯一つとっても、お米を作り、野菜を作り、それを流通させ、水道を整備し、ガスを整備し、家を建て、皿を作り、箸を作り、包丁を作り、鍋を作り、電気を通し…数えきれない恵みがあっての一食となっているのです。
このことを忘れて、自分は恵まれないとは、口が裂けても言えたものではありません。今、自分が生きていられるということは、数えきれない恵みを頂いているということを思い出していただきたいと思います。
自然界において、生物は助け合いをもって発展してきました。種族の繁栄には必ず助け合いがなければ成り立ちません。これは人類に限らず、動物や昆虫、植物に至るまで助け合いの社会が成立しています。助け合いをしなくなった種族は必ず滅びます。今の社会が荒廃してきていることを見れば、人類の行く末はよく理解できると思います。人間に生まれたからには、世の中が「助け合い」で成り立っているということを忘れないでほしいと思います。
綺麗ごとのように聞こえますが、論理的に考えても、たくさんの人が働き、私に恵んでくださっているから、命をつないでいられます。働くという字は、国字といわれる日本で生まれた漢字です。語源は「はた」を楽にするということだそうです。つまり、仕事というものは、自分のために働くのではなく、他の人を幸せにするために働くということが肝要なのです。
また、世界には、学ぶことができない社会に生まれた人もたくさんいます。学ぶことができるということがどれだけ恵まれていることか、考えたことがあったでしょうか。学生時代の多くの学びにより、たくさんの「わからなかった」ことが、「わかる」ことになったはずです。「わかる」ことが増えれば、人の役に立てられることが増えるのは、想像に易いことだと思います。
自分が支えられて生きてこられている、だから今度は支える側になろうと働く。「おかげさまで」の精神こそ、今の日本に必要なのではないでしょうか。
この論理が本当の意味で理解できれば、自分のしたいことが無いから、進学しなくていいということや、努力をしなくていいということにはならないはずです。自分が生きていられることが有難いことだと自覚し、支えてくれている父母兄弟、先生や友人、直接的なつながりがないかもしれないけれども、多くの人の役に立つ人間になるために、勉強しようとするはずです。
受験生は受験勉強を通して、自分のできることが増えたはずです。受験で合格した、しなかったは、ただ通り道がどちらかに分かれただけであり、重要ではありません。既に成長している自分に気づき、よく頑張ったと誇るべきです。そしてその力を今後どのように生かしていくかが最も重要です。自分の私利私欲のために使っていては、良い未来は訪れません。
自分ではない誰かのために、働くことのできる人が増えると、この世は明るくなると思います。
お読みくださりありがとうございました。
追記
私はまだまだ未熟者でありますから、恥ずかしながら誤った主張をしているかもしれません。また、この考えの根拠となる最も重要な事を省いての主張となっております。それについてはまだ軽々しく記述できる力が無いと思っているため、記載しておりません。それでも納得してくださる方は、非常に希少であると思われます。本当にありがたいことです。
基本的には、このような考え方もあるのだと捉えていただけると幸いです。